求めよさらば与えられん
先人曰く、
求めなさい。そうすれば、与えられるであろう。探しなさい。そうすれば、見いだすであろう。門をたたきなさい。そうすれば、開かれるであろう。(マタイ7:7)
「求める」のが先。かつ「正しく」が抜けてて。
卒啄同時
「正しく」「求める」のが先にたつと解釈する。極めて「同時」とみなせる程度に「求める」ほうが先なら理想的w
指導者は「同時」という言葉の解釈を見誤るな。価値観の押し付けや詰め込みが正しい教育ではない。当然に学習者のレベルにも依るが、指導的立場の者に必要な能力は観察力。学習者の興味ある方向を見定め、その殻が薄いところ突付いて教えてやるのが指導者の真の価値。そうすれば学習者は自分で勝手に殻を破る。
愛とは興味・関心
「愛の反対は無関心」からの当然の帰結。
好き嫌いではなく、興味関心。
この解釈であれば、親兄弟・隣人・世界・機械・仕事・推しのアイドル…etc 対象が何だって適用できるし、生きてる限り、タダで無限に湧くモノじゃね? コレこそまさに神の所業(永久機関)と言っとけば(解釈しとけば)よくて。
「好き」の延長が愛でなければならないと思うからしんどくなるのであって、興味関心だと思えば、別に対象が嫌いでも大丈夫。勝手に無限に湧けばいい。 簡単。
ただ、対象が「好き」であれば(あり続ければ)、対象への理解は早く深いってだけの話。 簡単。
様々な「興味関心」が寄り集まって世の中形成されるなら、世界は発展する方向に進むしかないんじゃね? って宗教(少なくともキリスト教と仏教の素人解釈で)は言っているようにしか見えんのだが。
結論
学習者は、「興味関心」を持ち、正しく問うのが使命。
教育者は、学習者の興味関心を「削がない」ことこそが使命。
人類はいつまでも
一体何を難しがっているのか┐(´д`)┌
または、皆難しいフリをしていることに
吾が気がついていないだけ?